雨乞山~龍山 / 伊賀

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投稿者
上田 哲也
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日程
2017年11月07日 (火)~2017年11月07日 (火)
メンバー
グランフロント大阪店:上田
天候
晴れ
コースタイム
下友田集会所・駐車場~10分~雨乞山・登山口~20分~雨乞山(268m)~50分~龍山(275.4m)~10分~龍山・登山口~20分~下友田集会所・駐車場
コース状況
雨乞山までは標識を追って行けば山頂に着きます。
雨乞山から雨乞池への道は結構荒れていました。
雨乞池から龍山への道は廃道状態で、激しいヤブコギを強いられる所もありました。

水場:なし
WC:なし
難易度
Google Map
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感想コメント

三重県伊賀市にある雨乞山に行ってみました。

雨乞山は地域住民が早魃の時に雨乞祈願を行った山と言われていますが、天正伊賀の乱の際には織田信長配下の武将・蒲生氏郷を迎え撃つため、山内左衛門ら近隣の土豪らが雨請山砦に籠もり、戦いを繰り広げた山としても知られています。

玉滝周辺の伊賀衆は天正伊賀の乱(1579年)の勃発直後に雨乞山に集まり、籠城時の出入の仕方、警備、物資の調達方法などを取り決めた掟書を作成し、織田軍への備えを実施。「雨乞山籠城掟書」には「忍番は夜討の敵が来たら合図の鉄砲を2発撃つ」等と記されており、忍者を敵襲の警備警戒に用いていたようです。

第二次天正伊賀の乱(1581年)では計画通り雨請山砦に籠城した伊賀勢でしたが、圧倒的な兵力差を誇る織田軍に対し、急な登り坂に竹皮を敷き詰め、その上に油を流して登れなくするなどの奇策を用いて徹底抗戦したと地元に伝わります。

また雨乞山の戦いには伊賀忍者の頭領の一人である藤林長門も参加していたようですが、「伊乱記」には名が記されているのみ…。その後、延宝4年(1676年)に子孫の藤林左武次保武が「万川集海」を著していることから、藤林家では数百年に渡って忍術が伝承されていた事が分かります。

下友田集会所の駐車場から出発。「登山口→」の標識に従い歩いていくと、地域の土豪だった山内家の古い石碑あり。さらに標識に従い民家の横から山に進んで行くと、獣避けの柵があり、そこから入山。

しっかり整備された登山道を歩いていくと、雨乞山の下の方は竹が密生している所があったり、急な崖で構成されている面があったりと、寄せ手の接近を妨げる地形だった事が分かります。約15分で見晴台に到着。遠くに霧に浮かぶ油日岳が見えました。

さらに5分ほど登ると、雨請山砦があったという雨乞山の山頂に到着。三角点なし。北にモクモク手作りファーム、東に霊山が望めます。気温15度。山の由来を書いた説明板と祠、伊賀の乱を偲ばせる「天正役遺蹟」の石碑あり。

山頂の北西端から雨乞池への下り道は所々に赤テープの目印がありますが、足元が結構荒れていました。10分弱で雨乞池に到着。伝説では雨乞い踊りが始まると、黒い煙が一面に立ち込め、池から龍が空に向かって吠え、雨雲を呼んで雨を降らせたそうです。

さらに三谷池まで南下したものの地形図の破線ルートは廃道状態…。構わずに倒木を迂回しながら進んで行くと、身長以上に茂った草の中でヤブコギする羽目に…。池から約40分で龍山の三角点に到着。展望なし。

山頂は少し先で、巨木の根元に石塚があって「龍」と彫られた水受けの石と小さな鳥居があり、神秘的な雰囲気が漂っていました。山名の刻まれた石柱の裏には「住吉より厄除けこもり雨乞い祈願せし処也」と彫られていました。

下りは龍山の登山口に下山し、下友田集会所の駐車場へ戻りました。

フォトギャラリー

霧に浮かぶ油日岳

山内氏城址(住宅裏の辺)

分かりやすい標識

山内家の古い石碑

雨乞山・登山口

雨乞山の登山道

そろそろ紅葉の季節

雨乞山の山頂

説明板

「天正役遺蹟」

北の展望

東の展望

雨乞池

三谷池

すごい生え方!

身長以上に茂った草の中でヤブコギ…

龍山の三角点

龍山の山頂

石塚

雨乞山

・実際に行かれる際は、現地の最新情報をご確認ください。
・ご自身の技術や体力に合った無理のない登山計画で山を楽しみましょう。

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