太尾山 / 米原

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投稿者
上田 哲也
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日程
2018年01月31日 (水)~2018年01月31日 (水)
メンバー
グランフロント大阪店:上田
天候
晴れ/曇り
コースタイム
JR・米原駅~15分~湯谷神社~35分~太尾山城「南城」(242m)~15分~太尾山城「北城」・太尾山(254m)~10分~盗人岩~30分~米原高校前~20分~JR・米原駅
コース状況
水場:なし
WC:湯谷神社の登山口にあり
難易度
Google Map
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感想コメント

滋賀県米原市にある太尾山に行ってみました。

米原は中山道と北陸道の分岐点に位置しており交通の要所であったため、南北朝時代頃には太尾山に城が築かれていたと言われています。そのため、この地を狙って幾度となく争いが発生し、戦国時代には北近江を勢力下に置こうとする浅井長政と六角義賢、その後は浅井長政と織田信長の戦いの舞台となっています。

永禄四年(1561)、六角軍に奪われた太尾城を取り戻す為、今井定清(浅井軍の武将)は伊賀者を起用した夜襲を計画し、長政は佐和山城の磯野員昌らを援軍として手配します。「浅井三代記」には「伊賀のしのひの者を頼候處に相たのまれ可申に事決定仕候て、太尾の城に火をかけ可申と契約仕候」とあり、伊賀忍者に太尾城へ火を放つよう依頼をした事が記されています。

米原の北西にある嶋若狭守の井村城(飯村城)に集結した軍勢は、六角軍に悟られぬよう米原坂(深坂)などへ密かに兵を進め、磯野隊は亀山の南、今井・嶋隊は亀山の北、他は尾根筋などに分散して布陣。田那部式部義明(田辺式部)と外からの攻撃を担当する忍びの一行も太尾城近くに潜伏して、城に潜入した伊賀忍者から合図があるのを待ち続けます。

夜明け近くになっても合図がなく、失敗したと考えた今井隊は撤収を開始。途中まで引き上げた所で遅れていた合図の火の手が上がり、焦った今井隊は急いで城へ向かいますが、暗闇の中で敵味方不明のまま磯野隊と衝突。同士討ち発生の結果、今井定清は磯野隊に誤って討ち取られ、忍びの放った火は消され、太尾城はより堅固に守られる結果に終わったといいます…。

JR・米原駅から出発。数日前までの雪の影響で駅周辺にはまだ雪がありましたが、歩行に支障のない程度であったので、15分ほどで登山口の湯谷神社に到着。「濱田口」の標識のある所から入山し、雪積が20cmぐらいある急な山道を登って、まずは太尾山城「南城」へ。

稜線に出た所が敵の侵入を防ぐ「堀切り」になっており、右手の斜面を登り切ると太尾山城「南城」の主郭に到着。中心曲輪の周辺に土塁の跡が残っていましたが、雪に埋もれているのか他の遺構は分からず。樹間から米原駅周辺がよく眺められました。太尾山城は別城一郭という構造になっているので、「堀切り」に戻って、次は太尾山城「北城」へ。

15分ほど尾根伝いに北上すると太尾山の山頂に到着。三角点なし、展望は樹間にあり。気温5度、積雪10cm。北側には自然の岩を掘削した土塁の一部が残っています。山頂からさらに北に進むと、西側に展望の開けた曲輪跡(土塁などで囲まれた区画)があり。さらに進むと非常に展望の良い「盗人岩」に到着。その昔、盗人がこの岩に隠れ住み村人を脅かしたといいます。

そのまま北上を続け、雪で滑りやすい急な斜面を下って米原高校の前に下山。高校の裏にある山が亀のような形をしているので、磯野隊が布陣した「亀山」はこの辺りだったと考えられます。帰路は「今井定清がこの深坂から(太尾城に)攻め込んだが失敗に終わった」と書かれている案内板のある深坂道(米原坂)を下って米原駅へ戻りました。

フォトギャラリー

太尾山城からの眺め

湯谷神社

太尾山城の解説

池も凍っています

「濱田口」

結構積もっています

雪道ではストック必携

「堀切り」

太尾山城「南城」へ

太尾山城「南城」

太尾山城「南城」からの眺め

中心曲輪の土塁

太尾山城「北城」へ

太尾山城「北城」

太尾山の山頂

東の展望

曲輪跡

「盗人岩」

「盗人岩」からの眺め

伊吹山も見えます

・実際に行かれる際は、現地の最新情報をご確認ください。
・ご自身の技術や体力に合った無理のない登山計画で山を楽しみましょう。

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