安土山 / 東近江
- 投稿者
-
上田 哲也
グランフロント大阪店
- 日程
- 2018年02月09日 (金)~2018年02月09日 (金)
- メンバー
- グランフロント大阪店:上田
- 天候
- 晴れ/くもり
- コースタイム
- JR・安土駅~45分~安土城・大手門跡~50分~天主跡・安土山(199m)~40分~安土城・大手門~35分~JR・安土駅
- コース状況
- 安土城跡は山道を歩く為、底のしっかりした軽登山靴が理想です。
冬季は凍結していますのでストックがあると安心です。
水場:なし
WC:安土城・大手門の手前にあり
- 難易度
感想コメント
滋賀県近江八幡市にある安土山に行ってみました。
東近江は美濃国から京都へ至る街道の要所であった事から、戦国時代には安土山に織田信長が安土城を築いています。安土城は繖山の観音寺城を手本にしたそうですが、より大規模に石垣を使用しており、当時としては画期的な地上六階(高さ33m)の木造高層建築の天主(信長は天守ではなく天主と呼ばせた)を備えた作りだったといいます。天主は「本能寺の変」の後に焼失。
軍事拠点としての防御設備に乏しかったという安土城は、信長や部下の住居、政治拠点、権力の象徴として機能していたと考えられており、琵琶湖に隣接していた当時は水運も盛んだったようです。城下町には宣教師オルガンチノによって建てられた日本初のセミナリヨ(キリスト教の神学校)もあり、信長も時折立ち寄ったと言われています。
丹波国の波多野宗長(氷上城の城主)は忍びを多用して織田軍と戦った戦国武将ですが、波多野家の旧臣の子孫が書き残した「籾井家日記」には、信長の配下であった明智光秀による「丹波攻め」が始まる前から安土の城下町に複数の丹波忍者を潜入させていた事が記されおり、当時の安土は情報戦の舞台でもあったようです。
雑賀五郎兵衛は安土に墨筆売りとして潜入。岐阜と往来して収集した重要情報を宗長に報告し、恩賞として名刀の脇差や黄金五枚、絹十反を受け取っています。また龍野善太郎実道は京都出身の「太郎八」という偽名で、表具師として早い段階から潜伏。後に笛の師範となって織田軍の武将らに取り入ると、信長の嫡男にまで接近を許され、知り得た情報を宗長に伝えていたといいます…。
JR・安土駅から出発。とりあえず山で服が汚れる前に、安土城郭資料館など周辺施設を散策。一通り知識と情報を得た上で城めぐりすると、現地でイメージが掴みやすくなります。安土城の大手門跡に到着すると、入山料を支払って大手道の幅広い階段から登山開始。周辺は至る所に巨大な石垣跡があります。
入ってすぐ左が「伝羽柴秀吉邸跡」右が「伝前田利家邸跡」さらに上が「伝徳川家康邸跡」と住居跡があるだけで、敵の侵攻を防ぐ防御設備が見当たらない不思議な城でした。信長は自分の本拠地が攻められるなどとは考えていなかったのだと思われます。天主への分岐の辺から凍結箇所が多くなり現代人の侵入を防いでいましたので、城攻め用に杖を用意しておくと安心です。
順路の標識に従って登って行くと「黒金門跡」があり、信長公本廟のある「伝二の丸跡」に到着。このあたりの石垣は見所です。出発から約50分で安土山の山頂部にある安土城・天主跡に到着。三角点なし、展望あり。積雪10cmぐらい。山頂から凍結した石段の道を下ると、次は信長が天正年間に甲賀から移建したという三重塔と仁王門へ。
この仁王門「元亀二年 甲賀武士 山中俊好が建立」と棟木に墨書されています。山中氏は甲賀二十一家(甲賀忍者の家系)の筆頭でしたが、仕えていた六角氏が信長に敗北した後に服従の証として門を移建したものと思われます。山中俊好は後に信長に従臣。居城の裏口に忍びの一族が建立した門を使用した信長ですが、忍者を用いた名将としても「万川集海」に名が記されています。
階段の道を下り終えると、普通の山道を大手門方向へ進んで下山。セミナリヨ跡を経由して、信長が通ったという下街道を歩いてJR・安土駅に戻りました。
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・ご自身の技術や体力に合った無理のない登山計画で山を楽しみましょう。