埋蔵金伝説残る多田銀山へ 一本松山~大日山 / 摂津
- 投稿者
-
上田 哲也
グランフロント大阪店
- 日程
- 2018年05月11日 (金)~2018年05月11日 (金)
- メンバー
- グランフロント大阪店:上田
- 天候
- 晴れ
- コースタイム
- 多田銀山・愁久の館~25分~瓢箪間歩~55分~一本松山(301.3m)~25分~大日山(339.8m)~60分~多田銀山・愁久の館
- コース状況
- 一本松山、大日山ともに細くて急な山道になっています。
水場:なし
WC:多田銀山・愁久の館にあり
- 難易度
感想コメント
兵庫県猪名川町にある多田銀山から一本松山と大日山に行ってみました。
多田銀山は昔から銅の産出地であったようですが、戦国時代に銀を産出するようになると豊臣秀吉の直轄領となり、豊臣政権の貴重な財源になったといいます。二度目の朝鮮出兵の後、病に倒れた秀吉は豊臣家の将来を案じ、大阪城内の金蔵にあった金銀財宝を多田銀山の21箇所の坑道に隠したとされ、日本三大埋蔵金伝説の一つとして知られています。
伝説では金山奉行の幡野三郎光照と帰化人技術者の民振竜が監督に当たり、4億5000万両を2ヶ月かけて埋蔵した後に銀山を閉鎖。一部は大阪冬の陣と夏の陣で消費したものの、大半は残されたままになっているとの事。太平洋戦争後になって、在処が記されているという複数の秘文書や絵図を各地で発見。ほぼ同じ内容が書かれていたようですが、忍びの国であった伊賀でも一部が見つかっているのが興味深いところ。
ただし記された財宝の量を短期間で運ぶのは不可能であり、秘文書は採掘していない地下資源の場所を記していたのではないかと考えられています。銀山地区には「大事あらば 掘り出してみよ 摂津多田 白金の山に 眠る宝を」との歌が伝承しており、今でも「白金」「古宝山」「宝塚」などの地名が近隣に残っている事から、どこか別の場所に隠された財宝が眠っているのかもしれません…。
多田銀山・愁久の館から出発。銀山橋を渡り道なりに歩いて行くと、住宅の脇に甘露寺跡があり、さらに進むと金山彦神社に到着。ここから山道を進むと、内部を見学できる青木間歩あり。中はTシャツ一枚だと少し肌寒いぐらいに冷えていました。続いて大露頭へ向かう。ここには台所間歩、瓢箪間歩という大きな採掘坑跡があり、柵越しに眺める事が出来ます。近畿自然歩道に戻り、風情のある田園風景が続く村上新田を歩いて行くと、石像のある分岐に到着。
そのまま「道の駅」方面へ進むと十字路になった峠があり、東方向を選択。細くて急な道を登る事、約10分で一本松山の山頂に到着。三角点あり、展望なし。気温23度。来た道を引き返して峠に戻ると、同じように細くて急な山道を西へ登り大日山へ。約10分で大日山の山頂に到着。三角点なし、展望は少し先の岩場から東方向のみ眺められます。帰路は峠に戻り、同じ道で多田銀山・愁久の館に戻りました。
銀山周辺には「ヘビノネゴザ」が生えていますが、これは別名「金山草」とも呼ばれているシダ植物の一種です。地中から様々な種類の重金属を吸い上げるという特性を持っており、金属の多い所に生える事から、昔は山師(鉱山師)や修験者が金鉱脈を探す目印にしたそうです。他のシダ類と違って冬場に枯れるのが見分け方で、一年中山を歩いていた彼らは金のある所に生える植物の変化に、経験則で気付いたのかもしれません…。
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