賤ヶ岳 / 余呉

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投稿者
上田 哲也
京都河原町店 店舗詳細をみる
日程
2018年02月27日 (火)~2018年02月27日 (火)
メンバー
単独
天候
晴れ
コースタイム
JR・余呉駅~60分~神羅崎神社跡~40分~飯浦越・登山口~40分~賤ヶ岳(421.13m)~50分~大谷山城~30分~JR・余呉駅
コース状況
賤ヶ岳の山頂直下が凍っており滑りやすくなっていました。

水場:なし
WC:余呉湖畔に数箇所あり
難易度
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感想コメント

滋賀県長浜市にある賤ヶ岳に行ってみました。

賤ヶ岳は琵琶湖と余呉湖を一望できる山として有名ですが、歴史上は「賤ヶ岳の戦い」の舞台になったことで知られています。戦国時代、織田信長の妹であったお市は北近江の浅井長政と政略結婚しましたが、後に同盟を無視して越前に攻め込んだ信長と長政が衝突。長い戦いの末に破れた長政は小谷城で自害し、お市は清洲城へ引き取られます。

本能寺の変で信長が倒れると、清洲会議の承諾を経てお市は柴田勝家のもとに嫁ぎますが、半年後に羽柴秀吉と勝家が賤ヶ岳にて衝突。織田勢を二分する激しい戦いの末に、敗走した勝家は越前の北ノ庄城まで退却したものの、数日後には落城。勝家とお市は自害したとされます。一方の秀吉は「賤ヶ岳の戦い」のあと、信長の後継者の地位を得て天下人へと駆け登ります。

長政は複数の伊賀忍者を雇っていたと言われており、長政の亡き後も彼らはお市に仕え続け、北ノ庄城の落城時にはお市を密かにに脱出させたとの伝説が残っています。浅井家の重臣だったという日比家(後の稲増家)がお市を匿っていたとされており、伊賀にある稲増家の墓所には長政の墓碑があり、また同家の土蔵にはお市の「のど仏」が保管されていると伝わります。

稲増家は江戸時代になると異国船漂着担当役や、藤堂藩の忍術指南役を務めていたといい、ペリー艦隊の船に潜入した澤村甚三郎(藤堂藩の忍者)の家に残る狼煙筒には「由緒書」に記されている稲増治郎左衛門の名が残されているそうです。由緒書の人物名などに信憑性があることから、「お市伝説」は歴史に埋もれた事実なのかもしれません…。

JR・余呉駅から出発。余呉湖畔の雪道を歩いて、とりあえず周回コースを反時計回りで進む。余呉湖は別名「鏡湖」とも呼ばれており、季節の風景と空の色を鏡のように映し出す事から、写真愛好家の間では隠れた撮影スポットとなっています。

案内板が雪に半分埋もれていて途中から読めなかった「菊石姫と蛇の目玉石」、賤ヶ岳合戦の際に伏兵達の隠れ場だったという「神羅崎の森壕」、賤ヶ岳合戦で秀吉の小姓らが槍を揮って功績を立てたという「七本槍の地」を経て、飯浦越の登山口に到着。賤ヶ岳合戦とは逆に、飯浦越切通しを登って賤ヶ岳の山頂へ。

城跡という事もあり山頂直下は結構な急斜面でしたが、一部凍結していて非常に滑りやすくなっていましたのでご注意下さい。40分ほどで賤ヶ岳の山頂に到着。積雪20cmぐらい。気温5度で意外と暖かい。展望は非常に良いです。帰路は余呉湖を一周する為、大谷山経由で下山しました。

フォトギャラリー

澄んだ青空を鏡のように映す余呉湖

雪の賤ヶ岳へ

余呉湖は別名「鏡湖」

賤ヶ岳合戦図

水鳥の足跡! 足ヒレの形が可愛いです

「菊石姫と蛇の目玉石」

「神羅崎神社跡」

本当に鏡のよう

「七本槍の地」

雲があれば…ウユニ塩湖のように空が映ります

飯浦越・登山口

飯浦越切通し

賤ヶ岳からの眺め 湖北

賤ヶ岳からの眺め 琵琶湖

賤ヶ岳からの眺め 長浜

賤ヶ岳からの眺め 余呉湖

賤ヶ岳の山頂

下り道

猿が馬場

木が倒れ→看板支柱に直撃→看板崩壊…の順と思われます

・実際に行かれる際は、現地の最新情報をご確認ください。
・ご自身の技術や体力に合った無理のない登山計画で山を楽しみましょう。

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