忍びの道を歩く 三雲城~夏見山 / 湖南
- 投稿者
-
上田 哲也
グランフロント大阪店
- 日程
- 2018年11月21日 (水)~2018年11月21日 (水)
- メンバー
- グランフロント大阪店:上田
- 天候
- 晴れ
- コースタイム
- 湖南市青少年自然道場~15分~三雲城・登城口~5分~八丈岩~5分~三雲城山(334m)~15分~三雲城・西登城口~25分~林道分岐~15分~(仮称)夏見山(428m)~20分~大岩~25分~林道分岐~10分~三雲城山(334m)~20分~湖南市青少年自然道場
- コース状況
- 三雲城は整備されていますが山道ですので、軽登山靴が望ましいです。
夏見山は正式な山名が不明の為、麓の地名を付けた便宜上の山名です。
夏見山の登山道はよく踏まれており、目印も定期的に付けられていましたが、GPSで現在地を確認しながら歩く方が安心です。
水場:なし
WC:なし
- 難易度
感想コメント
滋賀県湖南市にある三雲城から夏見山に行ってみました。
旧東海道の夏見宿のすぐ南東にある三雲城山には、かつて「三雲城」が築かれていましたが、長享元年(1487)に足利義尚の幕府軍による攻撃を受けた六角高頼が甲賀に避難してきた際に、地元の豪族であった三雲典膳実乃に命じて城を築かせたのが始まりとされています。
長享合戦では観音寺城を脱出して甲賀山(岩根山)に逃げ込んでいた六角氏が、幕府軍に対し山中に姿を隠しては表に出て攻撃するというようなゲリラ戦を展開。さらに「鈎の陣」と呼ばれた幕府軍の本陣を攻撃するために、甲賀忍者らを送り込んで夜襲を決行して幕府軍を撃退。後に義尚はこの時の傷が元で亡くなったと言われています。
「江州甲賀廿一家之由緒書」ではこの戦いに参加した甲賀武士を「甲賀五十三家」と呼び忍者の名家としていますが、下甲賀六家の「三雲新蔵人」もその一人として名前を残しています。「其後ノ合戦トモニモ、上廿一家・下六家一味イタシ、軍功度々比類無」とあり、その後の戦いに於いても三雲氏が六角氏の味方として戦功をあげていた事が分かります。六角氏没落後、三雲氏は織田信雄や蒲生氏郷、徳川幕府に仕え、幕末まで家名を存続することができたそうです…。
湖南市青少年自然道場から入山。この辺りは丁度紅葉が見頃になっていました。川沿いに山道を登って行くと、三雲城・登城口に到着。案内板を見ると、10分で登城できるようなので、まずは八丈岩へ。この巨岩は横から見ると塔のようですが、元々「見張り台」だったそうです。正面から見る地面から浮いてるように見え、落ちそうで落ちない絶妙なバランスを保っています。
八丈岩から主郭に向かう途中の巨岩群の中に、六角氏の家紋「四つ目結」が刻まれた岩あり。三雲氏は六角氏の信頼が厚かったようで、観音寺騒動や織田信長の侵攻の際には、本城を放棄した六角氏が幾度も三雲城に避難したといいます。土塁に沿って歩いて行くと、巨石を積み上げた枡形虎口の石垣あり。三雲城は観音寺城を手本に作られたとの説もあるようですが、自然の巨石を積み上げた石垣の構造が似ている気がしました。
5分ほどで主郭のある三雲城山の山頂に到着。三角点なし、展望あり。気温10度。城内には「猿飛佐助のふるさと 三雲城址」の旗が立てられてありますが、最後の城主・三雲成持の甥「三雲佐助賢春」が真田十勇士で知られる「猿飛佐助」ではないかと司馬遼太郎が書いている事に由来しているそうです。
主郭から4郭方面へ尾根道を進んで西の登城口に下った後は、林道を歩いて便宜上「夏見山」と命名したピークを目指す。しばらく行くと地形図の登山道表記のある所で目印のピンク色リボンを発見。滑りやすい急な斜面を登り、岩場を乗り越えて進んで行くと歩きやすい尾根道となって、地形図に428.4mの表記がある山頂に到着。展望無し、三角点無し、山名標識無し。
夏見山に来る途中に見えた大岩が気になるので、次はひとつ東の尾根へ向かう。踏み固められた非常に歩きやすい山道があり、20分ほどで展望抜群の大岩の上に到着。一枚岩の白い大岩は高さ10mぐらいあり、天から降ってきたかのように不自然な場所にポツンとありました。帰路は尾根道を北東に進んで三雲城経由で下山しました。
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