忍びの道を歩く 阿弥陀寺跡~清水山城 / 近江高島
- 投稿者
-
上田 哲也
グランフロント大阪店
- 日程
- 2019年02月05日 (火)~2019年02月05日 (火)
- メンバー
- グランフロント大阪店:上田
- 天候
- 晴れ
- コースタイム
- JR・新旭駅~2分~阿弥陀寺跡~15分~森林スポーツ公園~15分~城ノ口~30分~大宝寺山(237m)~20分~山の駅~25分~清水山城(210m)~20分~森林スポーツ公園~10分~JR・新旭駅
- コース状況
- 西ノ谷川コースは一部通過困難な場所があります(中級者向き)
水場:なし
WC:新旭駅の東口駅前にあり
- 難易度
感想コメント
滋賀県高島市にある阿弥陀寺跡から清水山城に行ってみました。
阿弥陀寺は聖徳太子の開基と伝えられており、東西一町、南北一町半の寺域があったといわれています。足利尊氏や織田・豊臣家から寺領の寄進を受けていたようで、古くから知られた寺だったようです。また阿弥陀寺は織田信長を狙撃した甲賀忍者の杉谷善住坊が、捕えられた場所としても知られています。
元亀元年(1570)、近江の六角承禎から狙撃の依頼を受けた善住坊は、近江国から伊勢国に抜ける鈴鹿山脈の千草越にて待ち伏せし、近くの大岩から十二三間(二十数メートル)隔てて対岸を通過中の信長を火縄銃で撃ちます。しかし使用した二発の玉は身体を少しかすめただけで狙撃は失敗し、信長は馬を急かして鰐口を逃れて無事岐阜城に帰陣。善住坊は忍びらしく現場から遁走し、姿を隠します。
「信長公記」には「善住坊は鯰江香竹を慿み高島に隠居候」と記されており、その後の善住坊は鯰江香竹という人物を頼って近江高島に潜伏していたようですが、信長は狙撃犯の追跡に執念を燃やしたといい、逃走三年目にして善住坊は新しい領主となった磯野員昌に見つかって阿弥陀寺で捕まり、岐阜城に連行。信長は狙撃の依頼主を聞き出した後、鋸引刑に処して復讐を果たしたそうです…。
JR・新旭駅から出発。まずは駅の東側にある阿弥陀寺跡へ。寺の痕跡はほとんどなく、宝篋印塔の周りに置かれた結界石だけが歴史を物語っているようでした。信長の高島侵攻までは近江国守護の佐々木家から分かれた西佐々木一族がこの辺りを治めていたといい、狙撃を依頼した六角氏も佐々木家である事から、善住坊は逃走中に佐々木家の庇護を受けていたのかもしれません。
続いて森林スポーツ公園の裏手にある清水山城へ。のどかな田園風景を眺めながら歩いていると、時折腹の底に響くような激しい爆発音や機関銃の銃声が聞こえてくる。ちょうど山の向こう側にある「饗庭野演習場」で日米合同訓練が行われており、米軍のオスプレイ輸送機の独特のプロペラ音も聞こえてきて、なかなか落ち着かない登山である。
地蔵山、大手道を経て、西ノ谷川コースから大宝寺山へ向かうが、堰堤の手前の草むらの中で道が途絶。途中にあった案内板のイラストMAPでは堰堤手前で川を渡る事になっていたので、大量の倒木を乗り越え斜面に取り付くと踏み跡を発見。尾根筋に出ると歩きやすくなり、「山の駅→」の標識から少し進んで大宝寺山の山頂へ。三角点なし、展望なし、銃声あり。気温8度。
「山の駅→」の分岐まで戻り一旦下って再び登り返すと、景色の良い展望台のある「山の駅」に到着。次は清水山城へ。清水山城は西佐々木一族の惣領家であった佐々木越中氏の居城跡で、遺構の保存状態が良く、国の史跡に指定されています。山道を下り、幾つか堀切を越えると、近江の城では珍しい畝状空堀あり。
最後は南西尾根の激しい堀切をロープを伝って登り、清水山城の主郭に到着。主郭からは広大な高島平野や琵琶湖を一望できます。帰路は西屋敷と東屋敷を経由して、森林スポーツ公園に下山しました。
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